2011/04/03

(無題)


 久しぶりに長文のブログを書きます。本当に久しぶりです。やっと書こうと思えるようになりました。しかし、実は何を書こうか?まったく考えないでキーボードを叩いています。なので、今日のブログの日記のタイトルは、「(無題)」です。さらに、「(無題)」なだけに、きっと文章の内容が右往左往したり、いったい何を言いたかったのかとか。結論の出ないままの日記になるかもしれません。敢えて、書いた後に文章校正もしません。誤字脱字もあるでしょう。あしからず。

 震災後、初めてのブログです。

 被災されている方は、まだまだ。先を考えれば考えるほど辛いであろうし。今、現在、当たり前のように辛いだろうし。僕は、映像としては、テレビを見て、そこから流れる現地の荒れ果てた地を眺めることしか出来ないし、被災地にいる方の表情や気持ちの動きも、メディアが選択したものを拾い上げて感じることしか出来ません。

 万単位の方が亡くなられました。想像出来ません。戦争を体験している方は想像出来るのでしょうか。わかりませんが、とにかく想像が出来ません。地震、津波。自然の驚異がそれだけの人の命を奪うということが現実に起きたこと。信じられません。

 原発が危ないと。言われ続けています。今もなお。これからもなお。自然災害において犯されたとはいいつつも、原発を作り上げたのは人間です。こわしたのは自然なのかもしれませんが、自然の上で、人間が行きて行く上で作り上げたものです。そこには多大な危険性が含まれていたということです。それを本当に僕たちは必要としていたのか。そんなことも改めて考えます。

 僕は未だに、音楽の世界で色々と活動させて頂いております。生計もたてております。こういう時は、「衣食住」が先決ですと。まさにその通りです。世に生まれでた時から、僕たちは、母の母乳を必要とし、暮らす家が必要であり、産着を着る必要なのです。野原に生まれ、一人で立ち上がり、数年で狩りに出かけることの出来る動物とは比較出来ないほど弱い生き物なのです。それは、大人になっても変わりません。生きるためにエネルギーを摂取するために、まず食べ物を欲する。自然環境から身を守らなければならないために衣服を必要とする。子孫を残すために、人は住む場所を必要とし、家族として生活する。それが出来なければ、行きて行けない。

 今、音楽のことに触れましたが、様々なところで音楽を表現することで生きている人や、それをサポートすることで生きている人が沢山います。僕も含めて、そのような人たちにとって、これほど無力さを感じることは無かったのではないかと思います。何が出来るか。出来ることは音楽を届けることだけだ。でも、今、真っ先にすべきことは人命を助けること。そこに音楽は必要ではない。そう思ってしまうのです。

 だけど、人間というものは、欲深い生き物で、衣食住が足り得ているだけで人生を全うすることだけでは満足がいかない生き物です。こんな切ないことを言ってしまうのはとても場違いで、不謹慎なことかもしれませんが、僕はそう思うのです。

 今、日本だけではなく、世界を見渡せば、所々で飢餓によって命を落としている人もいます。さらに、闘争や暴動で命を落としている人もいます。そのような事実と今回の震災を並列にするということもおかしな話なのかもしれませんが、どこかでだれかが命を落としているのです。それに比例するかのように、世界のどこかで、命が産まれているという事実もあります。命は減り、命は増えるのです。

 さっきから音楽のことを語ろうとしてるのですが、なかなか辿り着けません。なぜなら、まだ、どう表現したらいいか迷っているのが事実ですから。何を迷っているのか。わかってたらいいのですが、どうしたものか。

 結局、地震は、地球が動いているということですよね。なんで動くんでしょう。そんな疑問が最近よぎります。余震がまだまだ続いているのでそう思わざろう得ないのです。きっと、地球も生きているのでしょう。じゃあ、なんで地震を起こすのか?っていうのは、多分、科学者が分析して知っているのでしょうが、難しいこと言われてもわからない。いや、科学的に分析しても、理屈だけは出てくるはずだけど、「じゃあなんで動く意思を地球が持っているのか?」というのは、解らない気がします。

 結局、天変地異は計り知れないものですよね。そこにアプローチしても、どうにもならない。かといっても、その天変地異が起こる地球の上に生きている以上、いや、生きているというか、生かされている以上、いやいや、生かされているというか、生まれ出た以上、人間は、僕らは、生きることを死ぬまで続けるんですよね。

 生きることってなんなんだろうなって。そんな生命の根源的なことさえも考えさせられます。それは、被災された方々が一番感じているのだろうと思います。命を救われた、と感じている方もいらっしゃると思うし、何故僕だけが生きているのだろう、と感じている方もいらっしゃると思うし。逆に、何故あの人が命を落としたのだろう、とか。じゃあ、なんで、僕は、生きているのだろうかと。考えます。

 ただ息を吸って、はいて、何もせずに日々を過ごす。これだけでも生きていることになります。命を落とした方は、それさえも奪われたということになります。しかし、生かされた人は、ただそれだけで死ぬまで生き続けることは、生きている意味を失います。そう、生きている意味ということを、こういう時には強制的に考えさせられます。自然の脅威によって。地球からの刺激によって、です。

 生きる意味って、それこそ千差万別。世の中に様々な哲学や思想が溢れ帰ってますが、それに共感するのもありだけど、意味を見つける究極は、自分自身から湧き出るものだと思うのです。それに答えなんか無いし、そこに意味と答えを全く見つけられなくなった、見失ってしまったと勘違いしてしまい、悩み苦しんで、自ら命を落とす人もいる訳です。地球上の生き物の中で、自ら命を落とす、生きる苦しみから逃れるために命を落とす行為をする生き物は、人間だけです。

 支離滅裂。結局のところ、生きることの意味を知ることが人間の最大の喜びに繋がるのではないでしょうかと結論づけてしまっていいでしょうか?

 そして、意味を知るためには、ひとりぼっちでは知り得ない。人は人と繋がらない以上、自らを知ることが出来ない生き物ですから。それが、今回、このような震災があったことで、力を合わせるという行為が全国、世界中に広まって、生の意味を知ることを再確認、初体験しているのかもしれないのかと、思います。

 そこで、音楽は、やっぱり、無尽蔵な力を持っているようです。音楽はアートでもあります。アートとは、文学や、絵画や、様々なものと共通するものでもあります。しかし、そのアートの中でも、一番愚直で、一番だらしなくて、一番軽いものでもあるのです。悪い意味でとらえてもらってもいいです。それを、人は、ポップスと言うのです。アートではなく。ポップミュージックというのです。普遍的に大多数の心を掴むのです。博識者だけにしか解らないアートではなく、直感的に、生きている自分の魂に、心に突きさるものなのです。そしてその広がり方は、想像以上です。だからこそ、衣食住を超えた先を見据えるときに、生きる意味を掴む時に、あなたの存在証明をあぶり出すことをしてくれるのが音楽で。言語というツール以上に、人と人を繋げる力を持っているのが音楽なのです。

 今、僕は、被災地にいません。衣食住があります。被災地の方からすれば幸せの極地です。しかし、衣食住を得てしまっている今日を過ごす人間として日々を生きる以上、意味を探します。生かされている意味を、もっと実感したいのです。そこで、音楽を必要以上に欲しているのかもしれません。多分、僕は、これを言いたかったのでしょう。

 いつか。

 なにをもって平和というものか、僕にはまだ定かに考えることが出来ませんが。

 いつか。

 被災された方々が人並みの生活に戻られるまで。

 僕は僕で、やれることをやります。

 そこに音楽が関わってくるのであれば、全力で、やります。

 産まれたからには生きるのです。

 生きる意味を掴み幸せになるのです。

 幸せになるために。

 音楽が必要であるならば。

 そこで、微力ながら関われるのであれば。

 いや、関わっているのであれば。

 僕は既に生きる意味を掴んでいる気もするのです。

 誰に感謝すればいいのでしょうか。

 誰にもですね。



 長文、駄文、終わります。