2010/07/30

ROCK IN JAPAN FES DJ BOOTH 2005

明日は隅田川の花火大会なのです。
まだ生の花火は見ていない。生の花火はひたちなかまでとっておくのだ。
じゃあならば隅田川をなぜ一押ししているのかというと。テレビでもやるしね。だしね。コンクールがあるでしょ?知ってるかな。全国(?)の花火師が競い合う、やつ。そこにね、毎年遠い親戚が出てるのよ。でもいっつも入賞しそうでしない、みたいな。それが楽しみだから。明日テレビで見るのだ。自分が幼少の頃にね。その遠い親戚の家に行って、「花火ちょーだーい」ってって。手持ち花火を頂いたりして。それを自宅に持ち帰って、花火を、やる、みたいな。それが保坂家の風物詩だったりして。そんな一家団欒を想い出すにもいい機会なので。ね。
では。
振り返ろう。
フェスを。

【ROCK IN JAPAN FES DJ BOOTH 2005】
 自分から10年間を振り返るといいつつも。10年というものが、これほどまでに濃密で、長い期間であったことを、身に染みているのであります。このブログで。はい。
 この年から、ライブステージが三つになりましたね。サウンド・オブ・フォレスト。これはかなり革命的な出来事でした。ステージが増えるということが少しずつ話題になったときに、「どこに創るの?」という素朴な疑問がわき起こってきて。したら、「森のところに、創る」ってなって。すげぇなぁって感じたことを想い出します。それと、当初、あそこに、DJ BOOTHを移そうかい?みたいな話も出たとか出ないとか、そういう噂もあって。ちょっとどきどきわくわくしていたのです。でも、変わらずDJ BOOTHは場所を変えない。それがとても嬉しいことでもあります。あの場所。グラスの入り口にあってこそのDJ BOOTHなのです。この感じ、わかるかなぁ?わかってほしいなぁ…。
 DJ BOOTHは、この年は、戦場であったのです。何故か。それは、お笑い芸人の登場がそうさせたのであります。知っている人は知っている。知らない人は全然知らないこと。実は、私達、レジデントの3人衆は、DJをやっているだけではなくてね。毎日ね。裏方とまでは言えないけれど、ゲストのDJ様たちを紹介したり、何かトラブルがあったときに対応するように、手分けして準備していたりするのです。これは未だにやってます。だから大変なのです。でもって、この年が、戦場だった理由を改めて。芸人さんがDJ BOOTHに出るということになり。何が戦場だったかというと、我々、DJですが、喋るDJじゃないのに、芸人さんの呼び込みという役を仰せつかってしまったのです。「●●さん、どうぞ〜!」的な。これが大変で。だって、司会者じゃないし。ネタとネタの間の話術で場繋ぎなんて出来るわけ無いのにやったのです。さらに、芸人さんの出ばやし。知ってます?出ばやし。わかりやすく言うと、M-1グランプリでの、あの、「ヒズゴゴゴゴゴゴー!!」的な。あの曲が流れると芸人さんが出てくるという。そういう音のことを出ばやしという(ちなみにあの曲はファットボーイスリムなんです。余談)。それをですよ。我々レジデントが選んでかけていたんです。芸人さん持ち込みじゃなくて。「なんか、出ばやしっぽくて、ロックっぽいのお願いします」って言われて。そんなことやりつつ、司会業をこなす。さらに、DJをやるという。戦場の何物でもないばったばたの現場でした。今想い出しても汗が滝のように、脇からしたたり落ちますよ。
 そうそう。この芸人さんの登場って、全てがそう、とはいわないけど、後の、現在の、LIVE STANDへの架け橋になっていたのですよ。そう考えると凄いよね。あの場での芸人さんのパフォーマンスがあってこそ、オールスタンディングでのお笑いの祭典が産まれるヒントがあったという。全ての原点があそこにあったとまでは言わないですけれど、そのひとつの場になっていたという、DJ BOOTHにて躍動させてもらっているというのは、ほんと、感謝の一言です。
 てな感じで、芸人さんネタだけで、この年を振り返るのを終わってしまいそうな勢い。ですが。他の個人的なトピックを上げるとすると、RYUKYU DISCOかなぁ。後に、普通のステージでライブパフォーマンスをやってますが、彼らのパフォーマンスは最高でしたね。DJ BOOTHでの。くる〜!って感じで。琉球音楽とテクノの融合は、やってそうで誰もしていなかったということも含めて。あの灼熱の場で、とっても映えたのであります。
 本当は、事細かく想い出せば、もっともっと、出てくるはずなんですがね。こういうタイミングで、この場所で、書くことで、ぱっと想い出すことを、その勢いでつらつら書く事自体に意味があると思っているので。詳細調べれば、フェス増刊号を開けばいいことですがね。それはちがーう。ということで。2005年を振り返るはこれにて。おしまい!

ROCK IN JAPAN FES DJ BOOTH 2004

とうとう、RIJFES開催まで、後、1週間ですわ。
早いっす。
この1週間前となると、色々と、そわそわしてくるんですよ。
どっきどき。
あー、フジロックいきてー。

はい。
振り返ります。
つーか。
1週間で、後、6年間を振り返れるのか?俺。

【ROCK IN JAPAN FES DJ BOOTH 2004】
 この年にて初めて、三日間のチケットがソールドアウトだという。その事実がこのフェスの規模感が最大限に膨れ上がった証明であるということだと思います。それに同調するかのように、DJ BOOTHも基盤が出来たというよりも、次に繋がる様々な布石が生まれ、3人体制となったレジデントも盤石になりつつあったという年ではないでしょうか。ほんと。年を重ねるごとに、ブースのキャパシティも増えていき。認知度もかなりの上昇気流に乗っていたと記憶しています。
 そうそう。この年から、昨年ちょろっと出演があった、お笑いのステージが、三日間通して、開陳されたんですよね。その中で、あの、ダイノジがネタをやる芸人として初出演しているんですよ。まだDJではないのです。僕の記憶が確かならば、オオチくんがエアギターをやったりやったりしてたような気がする。こちらのタイムテーブルをごらんあれ。
 あとね。個人的な衝撃度でいうと。僕達が年を重ねて積み上げてきた場所に、DISCO TWINSと、FPMの田中さんが出演したという事実がとてつもなく感慨深い思いになったことを思い出します。ロックのフェス。日本のロック中心のフェス。そこにおいて、それらの音楽をかけまくるDJが成り立つということになった磁場に、テクノ、ハウスのDJが参戦してくれたということ。招く立場である僕にとってもなんとも嬉しい事実であり、最高のパフォーマンスを浴びた瞬間でした。
 さらにこの年には、COUNTDOWN JAPAN 03/04が行われた年であって。冬フェスへのチャレンジとその勢いももって夏に挑んだということもあり、さらなる飛躍を求められるであろうという自負と責任感も更に芽生えてきたと思います。ある意味、というか、どの年のフェスも、ターニングポイントになっているかと思うけど、この年が一番ターニングポイントになったのではないかと。来年以降ライブステージがひとつ増えるということや、チケットのソールドアウトが当たり前のようになるフェスの第一歩がこの年であったし。
 なんともかんとも。感慨深い。

2010/07/22

ROCK IN JAPAN FES DJ BOOTH 2003

つくばロックフェス、終わりました。
丸二日間。有り得ないくらいの晴天で。厚すぎて熱すぎて。もろに直射日光を浴びながらのDJはかなりしんどい感じでしたが、とにかく晴天であったことと、とにかく、素晴らしい音楽が鳴り響いていたこと。とても快適な森でした。
去年と比べてとかそういうのは多分いらない言葉だと思うのです。伊香賀守という男が体を張って、足を稼いで、魂をぶつけて、開催した、つくばでの二回目の野外フェス。それにともなって、様々なアーティスト、素敵なスタッフ、素晴らしいオーディエンスが集った。そこで産まれた音楽は、決して二度と再現が出来ないもの。それはどこのフェスでも同じことだけど、だからこそ、その場に行って、体感することはとても大切な音楽体験になる。うん万人というフェスが素晴らしいとか、世間的に認知されているアーティストが出演するのが素晴らしいとか、そういう尺度では、計れないものが、昨今のフェス事情には産まれてきていると思う。その一端となっているのは事実であり、数ある中のひとつなのかもしれないけれど、もしあなたが、つくばを選んだ人ならば、それはあなたの中で、最高の音楽体験になったはず。を提供する側は、あなたという人たちが、ひとりずつ、ひとつずつ、大切なものを感じてくれることに感謝するから。そんなフェスのいち、DJとして、二年連続参加したことを誇りに思います。

つーわけで。
恒例の企画。
ジャパンフェスのDJを振り返りマース。

【ROCK IN JAPAN FES DJ BOOTH 2003】

個人的には、3年目となる年でしたね。この年から、前田君が加わり、3DJでのレジデントとなるという。今の体制の初年度になるということでした。片平君と試行錯誤した場所に、新たに前田君が加わると言うことで。規模感が大きくなるということを証明している事実で。また再度、チャレンジしていくべく道が開けた年でありました。
ちなみに、超個人的な話になるんですが、この年は、100sの小野眞一がゲストDJで出演。彼がとてつもなく泥酔したという逸話は有名な話しで。これを機に、「小野眞一泥酔DJ」というものが確立し、後のアルコホリデイへの布石になったということなんでろうなと思うわけであります。
こちらのタイムテーブルを改めて見ると。いい意味で、ゲストDJも含めて、来年以降、または、年末フェスが開催されるということも含めての、色々な布石、試行錯誤が含まれていたんだなって思います。フェス恒例のハヤシ君DJや、曽我部さんもいるし。お笑い芸人が出てたりしてるんでね。この年はある意味ターニングポイントだったのかなって、思います。
うーん。なんだかんだいいながら。10年を振り返るのは結構大変ですなーと今になって思い始めた俺。やばいかも。なんか思い出せないかな。。。。
そうそう。
こちらを御覧あれです。当時のラジオ番組で片平君と語ったのです。その際のセルフレポートであります。これを読むと、やたら、「熱い!」という言葉を感じますな。それだけ興奮していたということでありますな。

まだまだ続く。。。。

2010/07/12

ROCK IN JAPAN FES DJ BOOTH 2002

もうそろそろ梅雨明けてほしいんだけど。どうかな。まだかな?もういやだよ。むしむしするのじめじめするのやだよー。

つーわけで。ROCK IN JAPAN FES DJ BOOTHを振り返る企画、第二弾。ROCK IN JAPAN FES DJ BOOTH 2002を振り返ってみたいと思います。

【ROCK IN JAPAN FES DJ BOOTH 2002】

この年から、DJ BOOTHに、レジデント制が導入されたわけですね。片平君と二人です。この年から三日間になったわけですね。フェス自体もね。でもまだステージは2つ。グラスとレイク。でも三年目ということで徐々に規模感がアップしていった時期。とにかく、レジデントという大役を仰せつかったということ。でもって、この年が色んな意味で、自分のDJ人生においてかなりのターニングポイントになったのは必至であります。2001年にて、初めて大人数の前で、野外で、フェスで、という状況でDJをやることになって、やった。でも、まさか、もう一度というか、続けてそのような状況でDJをやるようになるとは思ってもいなかったわけで。でもって三日間ぶっ通しで出演という。これはかなり参りましたね。やる前からどうしていいのかわからない状況が続いていました。こちらにてまたもや初々しい保坂の日記が掲載されております。かなり詳細に。改めて自分でこの日記を振り返ってみると、忘れていた想いというものも沸き起こってきましたよ。
ある意味、今ある、DJ BOOTHの基礎となる感覚。選曲に至るまで、この最初のレジデントで確立していたのかもしれません。いや、確立というよりも、片平君含めて、あの場所で如何にオーディエンスとともに祝祭空間を共有するか?ということに対しての試金石というものを掴んでいたのだなぁと思うわけです。先の日記にも事細かく記しておりますが、フェスのDJということが無ければ、あのようなスタイルは決して自分のDJでは確立しなかったという。日記の中では、「割り切り」というようなたとえで記しているけど、それは全然悪い意味ではなくて。DJとしてのエゴというものと、オーディエンスが欲しているモノに対する共有という柵を如何にとっぱらうか?という度胸と挑戦がこの最初のレジデントの経験で試されて、それが年々形になっていったのだと、改めて感じるわけです。
そうそう。DJ BOOTHというとゲストDJの豪華さもありますな。この年はどんな面子だったかというと、こちらをごらんあれです。なんか、不思議な感じでしょ?今思えば。ポリのメンバーがこの年から参加しているという事実以外、今、常連になっているアーティストのみなさんがまだ顔を出していなくて。どちらかというと、ロックなDJという感じでもなく、アーティスティックな感じが強い。こういう歴史を踏まえて、今に至るというのをDJ BOOTHは歩んできたんですよね。とっても懐かしい。このときに参加してくれたゲストのアーティストのみなさんのプレイが走馬燈のように駆け巡りますよ。
というわけで、2002年というのは、レジデントDJが始まったということ。それがとにかく衝撃であり。今に至る道程において、この、レジデントというものがどれだけの重さになるかということをまだその時点では気付かずに、ただひたすらに、ひたちなかという場所を、ジャパンフェスを、DJ BOOTHに来てくれたオーディエンスを如何に喜ばせて、自分も幸を得るということを試行錯誤した。という記念すべき年であったと思います。

では、この年から数年間。今に至るまで。保坂のハイパーアンセムとしてDJ BOOTHを鳴らし続けた楽曲を紹介して、次回に続きます。

2010/07/07

ROCK IN JAPAN FES DJ BOOTH 2001

今日は七夕ですね。
あ、どうも、保坂壮、彦星です。

実は、数週間前から、このブログにて、書き記していこうと思案していたものがありまして。それもあって、更新が滞って。
それは何かと尋ねられたら。
それは、ROCK IN JAPAN DJ BOOTHを振り返るってこと。
先の日記にも記しましたが、フェス自体は去年が10周年だったけど、私事ですが、今年で10年連続出演ということになりまして、ほんとに光陰矢の如し。10年ですよ。びつくり。というわけで、開催まで、約1ヶ月ということもありまして。開催までに10年を1年ごとに振り返ろうと、そういうことを思案しておりまして。それを始めます。
通常のブログも書きますがね。
よろしくであります。

では。
スタート。

【ROCK IN JAPAN FES DJ BOOTH 2001】

僕が一番最初にDJをRIJFESでやらせていただいたのは、2001年。フェス2年目の年です。皆さんご存じの通り、初年度のRIJFESは、台風がやって来て、途中で中止。その時僕は、実家にいなければならなくて、家で過ごしていたわけで。まあ今となれば、その初年度だけ僕は、参加していなかったということです。はい。
そんでもって、2001年なのですが、このころは未だ、レジデントDJというものが無くて。僕も連日参加するようなことではなくて。でも片平君は既に連日参加していたと思いますが…。そうそう。こちらを見てもらえればわかるけど、まだDJ BOOTHのレポートやら、タイムテーブルやらがオフィシャルのサイトには掲載されていなかったんですよ。それもこれも、DJ BOOTHというものがまだまだ認知されていなくて。ね。だって、こちらのMAPにも掲載されていない…。どこでどのように為されたか。。。。てなかんじ。当日の会場だって、やっつけテントで。タイムテーブルだって、やっつけプリントアウトビラ一枚をはっつけてあったという…。
そんな場所で、僕は、初めての、RIJFESにて、DJをやりました。その模様なんですが、恥ずかしいかな、未だに、「保坂壮彦」ってググってもらうと、出てくる、

「保坂壮彦、怒濤の2時間DJプレイリスト in ROCK IN JAPAN FES.2001」

こちらに僕の日記で詳細に書かれておりますよ。
この文章、まさに、10年前。しかもセットリストも書かれていたり。照明が眩しくて恥ずかしいとか、緊張したとか、なんだかこんだかあれやこれや。今から振り返って言葉にするよりも、この10年前の日記を見てもらえれば、一番わかりやすいかと。

とにかく、人生史上初、あのような場所で、大多数の人の前でDJをやったということが、未だに恥ずかしく、緊張し、手に取るように想い出せます。

懐かしい。
恥ずかしい。

以上!
続きは、2002年を振り返るで!


今日は七夕!

恥も外聞も捨てて、星に願いを!