中村一義
「運命/ウソを暴け!」
VFCV-00091 1,260円(税込)
2012年2月15日(水)発売
1.運命 2.ウソを暴け! 3.運命 -Instrumental- 4.ウソを暴け!-Instrumental-
ここ最近、このブログで、「音楽」という途方も無い広大かつ根源的なテーマを自分の原体験や独自の解釈で書き記し続けたが、今回のこのブログの文章、その名も、タイトル、「『音楽』〜“中村一義”」によって、その「音楽」というテーマの集大成ともなり、帰結点にもなり得て、さらなる未来への軌跡を示すことが出来るのでは無いか?と感じながら、今、言葉を綴り始めている。
気づけば、彼がデビューしてからもう15年も経つ。改めてこの年表で振り返ってみると、その足跡と共に、僕自身が歩んできた歴史がフラッシュバックしてくる。
ここからは、私、保坂壮彦の個人史を中心として、書き綴ります。
彼が、1997年『犬と猫』でデビューした時、僕は、社会人としてアパレル企業のショップ定員として働きつつ、高校時代からアマチュア・バンドの活動を続けていた。しかし、彼の出現を持って、僕はバンドを辞めた。当時僕はドラムをやっていたんだけど、彼のドラムの才能を目の当たりにして、驚愕してしまった。デッドな音色と、まるでリンゴ・スターのようなタメの効いたドラミングを浴びた瞬間に、どうあがいても敵わないという事実をつけられて、あっさりと辞めた。僕は、ずっと頭の中のどこかで、アーティスト目線で斜に構えながら、“俺が音楽で世界を変えてやる”なんて意気込みながら、もがき苦しんでいた。でも、そんなもがきは通用しないって、知っていた。でも辞められなかった。だから、彼の出現で、ようやく辞めることが出来たと言った方が良いのかも知れない。
さらに、時を同じくして僕は当時、父を亡くした。その直後に、“生と死”というものに真っ正面から向き合わされた。残された命を持って生かされた自分は、行く末の見えない未来に向けて、日々、戦っていかなければならないという使命感を背負い、その感情が、得も言えぬ“孤独”を産んだ。そんな耐えがたき僕の日々にとてつもない音楽で、心に突き刺さって来たのが、彼の1stアルバム『金字塔』であった。この出会いで僕はとある決心をした。“彼がいればそれだけでいい”ということだ。この決心は、彼に対して盲目的な信者になったというわけではない。『金字塔』というアルバムに全ての答えが入っていたからだ。音楽的手法然り、普遍的なテーマしかり、メロディー然り、今ここで生きる意味というもの然り…。THE BLUE HEARTS以来の衝撃であった。こんなアーティストがリアルタイムに存在しているのならば、それで十分だと思ったのだ。
この僕の天変地異的変化は、作り手としてバンド活動をしていた僕から、ただ音楽を愛するリスナーへと移り変わった瞬間である。彼がいれば、彼のこの才能が世に知れ渡れば、僕はどんな形であれ、音楽の魔法を信じ続けることが出来ると。確固とした見えない信念が生まれたのだ。
それから、僕は、無意識にその信念を貫き通したからなのであろうか…。または、例の音楽の神様というもののいたずらなのであろうか…。様々な人との出会いや奇遇な繋がりが僕の人生に巻き起こり、今日の自分、DJを初めとする音楽に関わる生活に至っているのである。
その過程には様々なことがあった。
今は無きCDショップ「WAVE」。その大宮店で働いていた時に、彼の2ndアルバム『太陽』がリリースされた。当時僕は、ロック&ポップス担当であったのだが、彼の音楽が持つ“洋楽と邦楽の壁を乗り越えた”音楽を、ジャンルやカテゴリーの壁を越えて店頭施策を行いたく。こちらも今は無き、音楽雑誌「snoozer」との接触を試みた。言わずもがな、「snoozer」は、洋楽邦楽分け隔て無く音楽を雑誌というメディアを通して発信していて、そこには中村一義も頻繁に登場していた。そこで、未だインターネットが存在していなかった時代、今で言う「クロスメディア」という手法であろうか。店舗施策で「snoozer」のコーナーを展開し、それをきっかけに、そこから田中宗一郎氏と知り合うことにもなった。さらに、3rdアルバム『ERA』リリースの際には、WAVEのフリーペーパーでのインタビュー取材で、中村一義本人に初めて出会うこととなる。
その時のことは鮮明に覚えている。まだ僕はその時、インタビューをやれるような経験やスキルが無かったので、単なるショップの店員の中村一義ファンの1人として同席させてもらっただけである。なのに、僕は、彼に対して想いを伝えたく。初めて会ったにも関わらず、しかも、アーティストに向けて、なんのてらいも無く(といいつつド緊張してたけど)、おこがましくも、CDとTシャツをプレゼントしたのです。CDは、Muddy Waters 『At Newport 1960』。Tシャツは古着のもので、緑地で、前面に白地の「JUST SAY NO」というロゴが入ったもの。たった数分の間に、彼に想いを伝える。それをモノで伝えるために、僕なりのメッセージを込めたものを渡したのです。
※後日、ロッキング・オンから出版された「『BRIDGE』2000年11月号 vol.28」にて彼がそのTシャツを着て表紙を飾ってたのを見たときは、全身に衝撃が走りました。
そんな出会いがあり、その勢いにも乗せてもらい、保坂壮彦満身創痍。思いの丈をワープロで(!)綴った、「『ERA』全曲解説」というタイトルのロングレビューを店頭にフリーで配布していたのをきっかけに、様々な人と人、縁と縁が繋がり繋がり、彼の事務所「FIVE-D」にて働くことになったのです。そう、以前このブログで紹介した、僕の師匠である佐藤剛氏が当時社長兼プロデューサーをしていた音楽事務所「FIVE-D」で働くことになったのです。
それからは、1人の音楽業界のスタッフとして、働き。働き。働き。そんな中でも、僕がDJとして公の場所にでるきっかけを作ってくれたのが、「TUK TUK CAFE」という事務所主催のDJイベントである。それが無ければ、僕のDJとしてのキャリアは始まっていなかった。さらに、「極東ラジオ」というラジオ番組のスタッフもやっていて。たまに、“しゃべるDJ”としても仕事をしていた時期もあった(例えばこんな感じで、こんな選曲)。そのような経験も、中村一義との出会いがなければあり得なかったことである。
そして過去現在未来に渡って、中村一義というアーティストとの繋がりの原点となったのは、彼のファンクラブの会報誌「広報中村」のインタビュアーの仕事をするようになったことが最大の契機である。それから、彼と、様々な会話をし、様々な感情の交流も幾度となく、様々な形で、場所で、音楽で、会話をした。そしてそこから生まれたのが、『中村語録』という書籍なのである。
中村一義のお祖父さんである、故:中村二郎氏との会話が詰め込まれた語録である。当初は通常のファンクラブ広報誌のひとつの取材であったのだが、二郎氏との会話から出てくる言葉の圧倒的な情報量、そして、祖父からの影響を受けたという中村一義の核心が如実になった事実。この2つの膨大なる素晴らしき言葉の力を、ひとつの形に残したい、と。この語録は、中村一義の歴史の一部であり、故:中村二郎氏の歴史でもあり、さらに言えば、音楽の歴史や、人生とはなんぞやという。人間の根源が詰め込まれている内容になると確信し、書籍として発売するに至ったのです。
ついさっき、改めて読み直したのですが、全く持って過去の遺産として存在していない。これから、また、いつか、目を通す機械があったとしても、決して色褪せないであろうと、改めて確信させられました。あの当時、あの場所で、二郎氏の言葉をしかと受け止め、取材させて頂けたのは、今でも僕の中では宝物です。そして、そこで語られた全ての言葉は、中村一義作品と共に、僕の心に強く、強く、強く、染みこんでおり、「音楽」の力の素晴らしさを未だ信じ続けて、DJを初めとする音楽の活動、音楽の架け橋として過ごしているのは、『中村語録』があったからこそと言っても過言ではありません。その後、『中村語録Ⅱ』『中村語録Ⅲ』と続く書籍が、2冊も創られたことはとても嬉しく思っていますし、最大級の集大成的自叙伝『魂の本~中村全録~』にも辿り着く経緯になったきっかけであったかも知れないと思うと、感慨深い思いが更にこみ上げてくるのであります。
話は戻って、中村一義は、その後、『キャノンボール』という新たな号砲となる楽曲を産み出し、バンドとしてのキャリアを進むべく、100sを結成して……。と………。いやはや。これ以上綴ると、言葉が止まらなくなるし、今回、「『音楽』〜“中村一義”」というタイトルでこのブログを書くことになったきっかけは、中村一義が、個人名義で約10年振りに新作をリリースすることになったからということであり、その、彼個人の作品と彼個人の活動が、僕の個人史に如何に関わったのか?ということをお伝えすべく書き記しているのであって。100sでのあれやこれやは、すみません、端折らせて頂きます。ご理解のほどを………。
で。改めまして。
『運命/ウソを暴け!』がもうすぐリリースされます。
本来ならば、「『音楽』〜“中村一義”」なんていう文章を開陳することなく、早速、『運命/ウソを暴け!』のレビューを書けば良かったのかも知れないんですが、久しぶりにリリースされる彼の作品情報やニュースにて出てくるキーワード。それが、“ベートーベンとの共演!”であり、さらに、彼の最新のアーティスト写真や、モロにジャケットの写真に使われている、白い顔の形になっているもの。それが強烈に目に飛び込んできて。それにおびき寄せられるかのように、レビューを書く前に、自分の心の整理もつけたかったというのが本心なのです。『中村語録』というキーワードを引用して………。
実は、彼が手に持っている白い顔の形になっているもの。これは、先に述べた、『中村語録』にて語りべになって頂いた、故:中村二郎氏のライフマスクなのです。ライフマスクとは、「生きている人間の顔の形を写し取ったマスクである。(中略)故人の顔から型をとるデスマスクとは違い、存命中の人間の顔の形をとる〜 [Wikipediaから引用] 」ということなのです。それを握り締めて、彼は、ベートーベンとの共演を果たすということなのです。
そう、彼は、デビューする前、自分の部屋を「状況が裂いた部屋」と名付け、ひたすら独りでひき籠もり続け、孤独と戦い、音楽を創作していた。人生と音楽の師匠である、故:中村二郎氏と日夜、音楽や世界や社会の事を語り合って、成長して行った。そして、そんな彼の部屋に飾ってあったのは、ベートーベンのデスマスクなのです。ベートーベンは、彼の音楽の原点であるのです。さらに、その原点であるベートーベンを教えてくれたのが、故:中村二郎氏であるのです。
この事実を目の当たりにした僕は、今回の、中村一義としての10年振りの個人名義作品に対する、彼自身の強い意志を感じたのです。それは、当たり前のように楽曲に反映されています。尋常じゃ無いくらい濃密な音楽です。世界も社会も時代も変わったけど、彼のコアな部分や心は変わっていない。それを証明するかのような、シングルになっています。
ていうか、ここまで読むと、“このブログの前半部分の保坂のことがどうだとか、いらないんじゃないの?”って思われそうですよね。でもね。最近思うのです。人を語るときは、自分も語らなければいけないなって。人を暴くことはとても簡単だけど、自分を暴くことに躊躇する人が多すぎる。人と人の関係には、上も下も無い。だから、人や音楽を伝えることの意味合いや重要性において、自分を語ることは必要不可欠なんじゃないかなって、最近強く思うので。書かせて頂きました。
というわけで。
では。
最新の、中村一義の動画を掲載して終わりにします。。。
ここからは、私、保坂壮彦の個人史を中心として、書き綴ります。
彼が、1997年『犬と猫』でデビューした時、僕は、社会人としてアパレル企業のショップ定員として働きつつ、高校時代からアマチュア・バンドの活動を続けていた。しかし、彼の出現を持って、僕はバンドを辞めた。当時僕はドラムをやっていたんだけど、彼のドラムの才能を目の当たりにして、驚愕してしまった。デッドな音色と、まるでリンゴ・スターのようなタメの効いたドラミングを浴びた瞬間に、どうあがいても敵わないという事実をつけられて、あっさりと辞めた。僕は、ずっと頭の中のどこかで、アーティスト目線で斜に構えながら、“俺が音楽で世界を変えてやる”なんて意気込みながら、もがき苦しんでいた。でも、そんなもがきは通用しないって、知っていた。でも辞められなかった。だから、彼の出現で、ようやく辞めることが出来たと言った方が良いのかも知れない。
さらに、時を同じくして僕は当時、父を亡くした。その直後に、“生と死”というものに真っ正面から向き合わされた。残された命を持って生かされた自分は、行く末の見えない未来に向けて、日々、戦っていかなければならないという使命感を背負い、その感情が、得も言えぬ“孤独”を産んだ。そんな耐えがたき僕の日々にとてつもない音楽で、心に突き刺さって来たのが、彼の1stアルバム『金字塔』であった。この出会いで僕はとある決心をした。“彼がいればそれだけでいい”ということだ。この決心は、彼に対して盲目的な信者になったというわけではない。『金字塔』というアルバムに全ての答えが入っていたからだ。音楽的手法然り、普遍的なテーマしかり、メロディー然り、今ここで生きる意味というもの然り…。THE BLUE HEARTS以来の衝撃であった。こんなアーティストがリアルタイムに存在しているのならば、それで十分だと思ったのだ。
この僕の天変地異的変化は、作り手としてバンド活動をしていた僕から、ただ音楽を愛するリスナーへと移り変わった瞬間である。彼がいれば、彼のこの才能が世に知れ渡れば、僕はどんな形であれ、音楽の魔法を信じ続けることが出来ると。確固とした見えない信念が生まれたのだ。
それから、僕は、無意識にその信念を貫き通したからなのであろうか…。または、例の音楽の神様というもののいたずらなのであろうか…。様々な人との出会いや奇遇な繋がりが僕の人生に巻き起こり、今日の自分、DJを初めとする音楽に関わる生活に至っているのである。
その過程には様々なことがあった。
今は無きCDショップ「WAVE」。その大宮店で働いていた時に、彼の2ndアルバム『太陽』がリリースされた。当時僕は、ロック&ポップス担当であったのだが、彼の音楽が持つ“洋楽と邦楽の壁を乗り越えた”音楽を、ジャンルやカテゴリーの壁を越えて店頭施策を行いたく。こちらも今は無き、音楽雑誌「snoozer」との接触を試みた。言わずもがな、「snoozer」は、洋楽邦楽分け隔て無く音楽を雑誌というメディアを通して発信していて、そこには中村一義も頻繁に登場していた。そこで、未だインターネットが存在していなかった時代、今で言う「クロスメディア」という手法であろうか。店舗施策で「snoozer」のコーナーを展開し、それをきっかけに、そこから田中宗一郎氏と知り合うことにもなった。さらに、3rdアルバム『ERA』リリースの際には、WAVEのフリーペーパーでのインタビュー取材で、中村一義本人に初めて出会うこととなる。
その時のことは鮮明に覚えている。まだ僕はその時、インタビューをやれるような経験やスキルが無かったので、単なるショップの店員の中村一義ファンの1人として同席させてもらっただけである。なのに、僕は、彼に対して想いを伝えたく。初めて会ったにも関わらず、しかも、アーティストに向けて、なんのてらいも無く(といいつつド緊張してたけど)、おこがましくも、CDとTシャツをプレゼントしたのです。CDは、Muddy Waters 『At Newport 1960』。Tシャツは古着のもので、緑地で、前面に白地の「JUST SAY NO」というロゴが入ったもの。たった数分の間に、彼に想いを伝える。それをモノで伝えるために、僕なりのメッセージを込めたものを渡したのです。
※後日、ロッキング・オンから出版された「『BRIDGE』2000年11月号 vol.28」にて彼がそのTシャツを着て表紙を飾ってたのを見たときは、全身に衝撃が走りました。
そんな出会いがあり、その勢いにも乗せてもらい、保坂壮彦満身創痍。思いの丈をワープロで(!)綴った、「『ERA』全曲解説」というタイトルのロングレビューを店頭にフリーで配布していたのをきっかけに、様々な人と人、縁と縁が繋がり繋がり、彼の事務所「FIVE-D」にて働くことになったのです。そう、以前このブログで紹介した、僕の師匠である佐藤剛氏が当時社長兼プロデューサーをしていた音楽事務所「FIVE-D」で働くことになったのです。
それからは、1人の音楽業界のスタッフとして、働き。働き。働き。そんな中でも、僕がDJとして公の場所にでるきっかけを作ってくれたのが、「TUK TUK CAFE」という事務所主催のDJイベントである。それが無ければ、僕のDJとしてのキャリアは始まっていなかった。さらに、「極東ラジオ」というラジオ番組のスタッフもやっていて。たまに、“しゃべるDJ”としても仕事をしていた時期もあった(例えばこんな感じで、こんな選曲)。そのような経験も、中村一義との出会いがなければあり得なかったことである。
そして過去現在未来に渡って、中村一義というアーティストとの繋がりの原点となったのは、彼のファンクラブの会報誌「広報中村」のインタビュアーの仕事をするようになったことが最大の契機である。それから、彼と、様々な会話をし、様々な感情の交流も幾度となく、様々な形で、場所で、音楽で、会話をした。そしてそこから生まれたのが、『中村語録』という書籍なのである。
中村一義のお祖父さんである、故:中村二郎氏との会話が詰め込まれた語録である。当初は通常のファンクラブ広報誌のひとつの取材であったのだが、二郎氏との会話から出てくる言葉の圧倒的な情報量、そして、祖父からの影響を受けたという中村一義の核心が如実になった事実。この2つの膨大なる素晴らしき言葉の力を、ひとつの形に残したい、と。この語録は、中村一義の歴史の一部であり、故:中村二郎氏の歴史でもあり、さらに言えば、音楽の歴史や、人生とはなんぞやという。人間の根源が詰め込まれている内容になると確信し、書籍として発売するに至ったのです。
ついさっき、改めて読み直したのですが、全く持って過去の遺産として存在していない。これから、また、いつか、目を通す機械があったとしても、決して色褪せないであろうと、改めて確信させられました。あの当時、あの場所で、二郎氏の言葉をしかと受け止め、取材させて頂けたのは、今でも僕の中では宝物です。そして、そこで語られた全ての言葉は、中村一義作品と共に、僕の心に強く、強く、強く、染みこんでおり、「音楽」の力の素晴らしさを未だ信じ続けて、DJを初めとする音楽の活動、音楽の架け橋として過ごしているのは、『中村語録』があったからこそと言っても過言ではありません。その後、『中村語録Ⅱ』『中村語録Ⅲ』と続く書籍が、2冊も創られたことはとても嬉しく思っていますし、最大級の集大成的自叙伝『魂の本~中村全録~』にも辿り着く経緯になったきっかけであったかも知れないと思うと、感慨深い思いが更にこみ上げてくるのであります。
話は戻って、中村一義は、その後、『キャノンボール』という新たな号砲となる楽曲を産み出し、バンドとしてのキャリアを進むべく、100sを結成して……。と………。いやはや。これ以上綴ると、言葉が止まらなくなるし、今回、「『音楽』〜“中村一義”」というタイトルでこのブログを書くことになったきっかけは、中村一義が、個人名義で約10年振りに新作をリリースすることになったからということであり、その、彼個人の作品と彼個人の活動が、僕の個人史に如何に関わったのか?ということをお伝えすべく書き記しているのであって。100sでのあれやこれやは、すみません、端折らせて頂きます。ご理解のほどを………。
で。改めまして。
『運命/ウソを暴け!』がもうすぐリリースされます。
本来ならば、「『音楽』〜“中村一義”」なんていう文章を開陳することなく、早速、『運命/ウソを暴け!』のレビューを書けば良かったのかも知れないんですが、久しぶりにリリースされる彼の作品情報やニュースにて出てくるキーワード。それが、“ベートーベンとの共演!”であり、さらに、彼の最新のアーティスト写真や、モロにジャケットの写真に使われている、白い顔の形になっているもの。それが強烈に目に飛び込んできて。それにおびき寄せられるかのように、レビューを書く前に、自分の心の整理もつけたかったというのが本心なのです。『中村語録』というキーワードを引用して………。
実は、彼が手に持っている白い顔の形になっているもの。これは、先に述べた、『中村語録』にて語りべになって頂いた、故:中村二郎氏のライフマスクなのです。ライフマスクとは、「生きている人間の顔の形を写し取ったマスクである。(中略)故人の顔から型をとるデスマスクとは違い、存命中の人間の顔の形をとる〜 [Wikipediaから引用] 」ということなのです。それを握り締めて、彼は、ベートーベンとの共演を果たすということなのです。
そう、彼は、デビューする前、自分の部屋を「状況が裂いた部屋」と名付け、ひたすら独りでひき籠もり続け、孤独と戦い、音楽を創作していた。人生と音楽の師匠である、故:中村二郎氏と日夜、音楽や世界や社会の事を語り合って、成長して行った。そして、そんな彼の部屋に飾ってあったのは、ベートーベンのデスマスクなのです。ベートーベンは、彼の音楽の原点であるのです。さらに、その原点であるベートーベンを教えてくれたのが、故:中村二郎氏であるのです。
この事実を目の当たりにした僕は、今回の、中村一義としての10年振りの個人名義作品に対する、彼自身の強い意志を感じたのです。それは、当たり前のように楽曲に反映されています。尋常じゃ無いくらい濃密な音楽です。世界も社会も時代も変わったけど、彼のコアな部分や心は変わっていない。それを証明するかのような、シングルになっています。
ていうか、ここまで読むと、“このブログの前半部分の保坂のことがどうだとか、いらないんじゃないの?”って思われそうですよね。でもね。最近思うのです。人を語るときは、自分も語らなければいけないなって。人を暴くことはとても簡単だけど、自分を暴くことに躊躇する人が多すぎる。人と人の関係には、上も下も無い。だから、人や音楽を伝えることの意味合いや重要性において、自分を語ることは必要不可欠なんじゃないかなって、最近強く思うので。書かせて頂きました。
というわけで。
もしかしたら、週明けに発売される「MUSICA」にて、僭越ながら書かせて頂いた、ディスクレビューのほうが、先にみなさんに届くことになるかも知れませんが、改めて、ここでもレビューを書かせて頂こうと思っております。
では。
最新の、中村一義の動画を掲載して終わりにします。。。
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