2012/01/20

『音楽』〜“言葉とリズム”



 いやぁ。自分で撒いた種だから、書き続けよう。『音楽』というものにぶつかって砕けて、自己内革命が起きてしまった数日前。その時に溢れかえったものを、言葉にするという日記だ。

 “言葉とリズム”

 僕は馬鹿だからというか、腑に落ちないことがあるととことん突き詰めないと気が済まない性分だから、昔っからずっと、音楽を聴きながらも、ずっとずっと、「『音楽』ってなんでこの世の中にあるんでしょうかね?」という問いをずっと抱えて生きてきたのです。それなりの文献や知識人からの教えを頂き解釈し続けて来て今日に至るわけです。

 そんなことを突き詰めると、人間が言葉を覚える前から音楽たりえるものは存在していたということを知るわけです。とはいいつつも、僕は天の邪鬼で、特に歴史上の事実。その時に生きていた人が本当に体験したという事実以外は全て本当と思えない性分で。嘘か真かは定かではないと言う、斜に構えた考えのもと、とにかく、音楽は言葉よりも前に存在していたと。そう結論づけています。

 人間がどうこの世に自然界に生まれ落ちたかは知らないっす。そこまでは知らないっす。僕は無神論者であり特定の宗教を崇め奉る人間では無いし、かといって、ダーウィンの進化論を信じる科学的な人間でもないから。でも、想像するに、人間は、四足歩行から二足歩行になって、モノを使うことを覚え、火をおこすとか。それなりに進化はしたみたいだろうと。その中で、同種の人間同士でコミュニケーションを取るのに生まれたのが、ビートだと。モノを叩く行為だと、思うのです。それが『音楽』の始まりだと思うのです。

 世界を見渡しても、必ずどこの種族でも、祝祭や葬祭には必ずリズム、ビート、太鼓ありき。そこに踊る人がいる。そこから人は音と戯れることが必要不可欠となったと。それが、神聖なるモノなのかどうかは解りませんが、とにかく人と人を繋げ、目に見えぬなにかと意思疎通するために『音楽』は生まれたのではと。その後に、人間は、この世界中のどの動物よりも高度な脳を持ってしまったが故に、言葉、というものを会得したのではないかと、解釈しています。なので、僕の中では、新しい『音楽』を聴く時には必ず、ビートを感じます。その後、身体や心が躍り出すか?によって、本物かどうかを感じ分けます。その後に、言葉が乗っかったメロディーを感じます。近代以降に確立されたといわれるメロディーを、です。なので、邦楽だろうが洋楽だろうがどんなジャンルだろうが、関係無い。『音楽』には、と。そういうものが染みついているのです。『音楽』は言語の壁を越える、と。国境を越える、と。それは、今でも間違っていないと思っています。そう、間違っていない。でもなんでそう思ったのだろうか。そういう自問自答が急に襲ってきて。どうしようと…。そんなタイミングで、自ら解決出来たのが、その、間違っていないという核心を得たのがここ最近なのです。

 先日の日記でも触れた、「上を向いて歩こう」という本でも著者、佐藤剛氏が触れていましたが、世界には無数の国があり、無数の母国語があります。僕らは日本人で日本語を覚え、日本語で喋っています。これ、当たり前。で。その喋っているという行為の前に、僕らは日本語を聴いて育ったから、喋れるようになったということを忘れがちというか、僕は、その見方に気づかなかったのです。

 日本語は母音が主音の言語なんですよね。「あ・い・う・え・お」って。でも、例えば、英語は子音が多分に含まれている言語なんですよね。日本語にはあまりない、子音。例えるならば、“シュ”とか“スッ”とか。ネイティブの英語を物まねして、ふざけて喋るあの感じね。「コーヒー」じゃなくて「カッフェ」とか。「デス・イズ・ア・ペン」じゃなくて「ディス・イズ〜」とか。こういう違いって、言語で『音楽』を聴こうとすると、かなりの障壁になるということなのですよね。で。当たり前のように、その国々に住む人達は、生まれてからずっとその国の母国語を聴いて育つわけで。実は、日本語を聴いて育った人には聞き取れない音域が、英語に内包されているって知ったわけです。教えてもらったんです。母音、子音、の違いもあるけど。ヘルツ単位で、聞き取れないという極論まで行かずとも、感じる音。潜在的にすり込まれた、聴こうとする音域が、無意識に染みついているんだということらしいのです。

 そこで、自分の中で、キラリ!とエジソンが電球を発明したかのように(かはどうか知らんけど)、すげぇ!って、なったのです。なるほどと。

 ここからは僕の全くの持論と僕の勝手な感覚です。

 敢えて言葉をくみ取って『音楽』を聴こうと僕が何故しかなったのか。しないのか。それは、無意識に、ビートに委ねるという本来人間が根源的に持っていたものだったのではないのかなって納得したわけです。それと、日本人であるからこそ、ずっぽし歌謡曲を聴いていた人間でもあるけれど、先の日記にも述べた通り、“邦楽は洋楽に劣る”という劣等感を持って音楽をずっと聴いていた理由がわかったのです。別に僕が、英語をネイティブに喋れるわけではないっすよ。もう、どこを切り取っても「ザ・日本男児」ですから。でも、“いいなぁ、この音楽は”って、直感的に思えたのが洋楽で。どうしても、“なんかかっこ悪いよなぁ”って直感的に思ってしまっていたのが邦楽だったと。その違いは、僕がこよなく聴いていた音楽が主にロック、ロックンロールだったからです。ポップスもそうだけどね。結局、欧米から生まれた『音楽』なわけで。子音を主軸とした言語がビートに乗っかる音楽が全うな訳で。だからそういう捉え方をしていたんです。そんな、からくりに、最近、ようやく心底気づき、辿り着いたんです。

 それから、もう、なんか、違うんですよね。『音楽』の聴き方が。今までの解釈から全く違った感じ。今まで蓄積されてきた音楽を振り返って聴いても、耳や身体や心や感情や何やら全てに作用する感じが変わったという。そんな自己内変革が起こったのであります。

 と。またまた長々とつらつら書いてしまいましたが。実は、このことは知ってはいたんです。知っていたつもりではあったんです。しかししかし。なんとなくだめ押しのように、ここ数日間でその根拠と事実を突きつけられるようなことがあったので、改めて、『音楽』の深さに感慨深くなってしまったというわけです。

 そうそう。由紀さおりの歌がなんで世界でヒットしたの?の理由もこれに当てはまります。海外の人達は、日本語を知りません。知らない人が急激に惹きつけられたのです。理由は一概にひとつとは言えないけれど、彼女の歌声を楽器として捉え、聴いて、心地よいと思った人が、海外に多数いたということらしいのです。この事実も、僕の中で、納得、、、。となったものでもあります。

 このようなことを全て僕と同じように感じていたかは解りませんが。みんなも感じているかは解りませんが。このバンドがとてつもないパワーで急激にロックンロールバンドとして市民権を得た理由、解りますよね?

 英語詞、ヴォーカルがまんま欧米のソウルミュージック。だから大正解のロックンロールになっている。だからだから超かっこいいという。

 そういうことですよ。

 他に事例を上げたらきりが無いので、この辺で。

 僕が彼等のナンバーで一番好きな『音楽』を紹介して、終わりにします。

 


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